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「気の法則」を見つけ、気の流れに沿って生きるために

私たちは、どんな力に突き動かされて生きているのでしょうか。
生物として生きる力、人間として人と関わりながら生きる力、知的に考え色々な価値を見つけて生きる力。多くの側面から見ることができると思います。
また、その力はどこから来るのでしょうか。
食べて呼吸することで、地球上の栄養素と酸素を取り入れること。自然に抱かれること。人に育まれ励まされること。どれを取っても、力を得るのに大切だと思います。

こうしたことを小さい頃から考え続けて、やがて私は「気」という概念に出会いました。といっても、実はもっと前から出会っていたものです。言葉を覚え始めたころから。
「元気になる」「気持ちが通じた」「気を確かに」数え切れない言い回しが、私たちの言語にはあります。ことほどさように、漢字文化圏では、「気」という言葉を使って世界を見ているわけです。

さて、「気」という概念に出会ったのは、中医学の中の気功でした。そこでは、身体を見る見方の一つに「気」が用いられていました。「気」という言葉は、この分野に限って言うのなら、「生体エネルギー」と置きかえられる用い方でした。私たちの身体には、血液の流れという目に見えるものだけではなく、気の流れというものがあり、気の流れが滞ると病になる、という考え方がそこにはあります。

では、その「気」はどこから来てどこに帰っていくのだろう。

その問いが自分の中に生まれました。肉体だけを見ていたのでは、この気の流れは分かりません。
その時点で私は、「人間はどんな力に突き動かされて生きているのか」を知りたくて大学院で社会心理学を研究していました。意識と環境、個人と社会といった関わりを見る視点に、「気」という概念が加わったことで、地球や宇宙の営みと人間との関わりとにも、視野が広がっていきました。また、その概念は、生体エネルギーといった意味合いにとどまらず、森羅万象に関わる広くて深い意味合いを持つことも知りました。

私たちは、普段何らかの見方や枠組みで世界を見ています。誰でも何か思い込んでいる、といっても過言ではありません。
たとえば、「心」という言葉はどの言語にもあり、人間には心があるとされていますが、心を見た人はなく、心がどこにあるのかも証明されたことはありません。でも、誰しも「心を持っている、心が通じたことがある」といった経験を持っています。「心」も概念です。そして、「心のあり方」を知ろうとするのは、人間を知り、社会や歴史を知ることだという見方は確立されています。

同じことは「気」にも言えます。(気は一部に限れば目で見えると言えなくもないのですが、それはかなり限定的なものです。)
「気」の全貌を見た人はなく、どこにあるのか、それは何か証明されたことはありません。でも、漢字で育った人なら、「気」を経験しています。それは、この世界を「気」という概念を通じて見ていて、「気のあり方」を知ろうとするのは、人間を知り、社会や歴史、地球や宇宙を知ることだと私は考えています。
そしてその「気のあり方」には、法則のようなものがあると感じています。個々の法則性については、具体的な現象と共に、著書や講義を通じて伝えています。

「気の法則性」を知ることで、それまで気づかなかった自分を知ることもできます。「自分はどうして、こうなのだろう」と悩んだとしても、その絡まった糸を解いて自分で道を拓いていくことができます。
人間関係も気で成り立っていると見れば、相手をもっと理解して受け入れ、自分ももっと理解してもらえる方法が見つかります。
病気は、病んだ気が形に表れているわけですから、病院に行って治してもらうという「受身の生き方」をしなくても、自分で癒える道筋が見えてきます。家族や友達が病気になった時、その人の生きる力になることも出来ます。

ジャーナリストとして世界中をめぐり、貧しい人から国王に至るまで、様々な人に出会うときも、いつも「この人を突き動かす力は何だろう」と考えていました。私は現在様々な活動をしていますが、「気を感じ、その現象が生まれた気の法則性を考えること」は、何をするときでも切り離すことができません。一方、このホームページでは、私の活動のうち「気の法則」を伝える活動だけを載せています。

「気の法則」を知ることは、気を感じることから始まります。
その気感を育て、「気」を通じて世界を見る、それも思い込みに陥らず現実をしっかりと踏まえて見ていくために、25年間、様々な指導を行ってきました。
それは、私自身も、「気」を通じて、私たちが生きているこの大きな世界を知る道でもありました。遠い先を目指して、今日も走り続けています。

大きな気の流れに沿いながら、私は生きていきたいと思っています。

山口令子